2009年07月02日

第一次産業

第一次産業では、農業、漁業、林業 がバランスよく九州各県に広く分布しており、出荷額も多い。また温暖な気候であるため、熱帯・亜熱帯地域が原産のサツマイモ、マンゴー、ブンタン、バナナなどの生産も行われている。
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第二次産業では、北九州工業地帯を中心に、歴史的に鉄鋼、石炭などの素材産業やエネルギー産業が盛んであった。また、三菱重工業や佐世保重工(長崎県)などの造船業に代表される重工業も盛んであるほか、久留米市ではゴム工業、大牟田市や延岡市などでは化学工業を中心として発展してきた。 また、近年、IT産業の進出により、半導体分野での世界シェアは1割を占めるまでになっており、「シリコンアイランド」と呼ばれている。 さらに最近では、トヨタ自動車・日産自動車・ダイハツ工業・ホンダなど自動車メーカーの工場の立地が進み、濃尾地方に次ぐ国内の自動車製造拠点となり、先に「シリコンアイランド」と呼ばれていた経緯から「カーアイランド」と呼ばれるようになっている(台数ベース世界シェアは1.9%)。

第三次産業では、九州の全産業生産額の過半数を大きく占めている。とりわけ福岡県の全産業に占めるシェアは高く、卸売業は福岡市を中心に九州全域を市場として発展しており、同県の卸売業の年間販売額は全国第4位、九州全体の60.6%を占めるなど、九州における第三次産業の割合の高さの一因となっている。 金融の分野では、都市銀行の店舗は少なく、各県に地方銀行の本店があり、地域に根ざした営業網を展開している。 また、不良債権を抱え、経営困難に陥った地方銀行の救済を目的に、資金力のある地銀による吸収合併が進んでおり、九州管内での業界再編が行われている。情報通信業では、ITソフトウェア関連のサービス業が伸びており、その多くが福岡市内に集積している。

2009年06月13日

結び目理論(むすびめりろん、knot theory)とは

結び目理論(むすびめりろん、knot theory)とは、紐の結び目を数学的に表現し研究する学問で、低次元位相幾何学の一種である。組合せ的位相幾何学や代数的位相幾何学とも関連が深い。

たとえば日常で、靴の紐などを蝶結びするとき、ちょっとした違いで縦結びになったり横結びになったりすることはよく知られていることである。このようなとき、結び目理論では、紐の両端をつないで輪の形にすることで、これらの結び目が図形としてどのように異なるか(あるいは同じものなのか)ということを数学的に明らかにすることができる。

一般に、二つの結び目(あるいは絡み目)が同じであるかどうかは、ライデマイスター移動などの局所変形や交差の入れ替えなどの結び目解消操作を用いて調べられる。

結び目や絡み目の分類は、結び目不変量 (knot-invariant) あるいは絡み目不変量 (link-invariant) と呼ばれる "量" の発見と構成を主として行われる。例えば、絡み目の外部の基本群を周辺構造 (peripheral structure) 込みで考えたものは、結び目の完全不変量である。しかし、肝心の群の分類が容易ではないためこれを不変量として用いることはほとんどないようである。主に使われる不変量はアレクサンダー多項式などの多項式不変量や、結び目解消数 (unknotting number) などである。
頭痛
オーパーツ
社交ダンス
惑星
ラフティング
爬虫類
キャンプ
流鏑馬
犬ぞり
華道
日本の建築
家電の昔
江戸の歴史
湯・茨城
湯・山口
安土桃山時代
湯・長崎
裁判所について
アリさんの一日
カラオケ・ばんばん


なお、Haken による正則曲面 (normal surface) の理論により、任意に与えられた 2 個の結び目が同値であるか否かを判定するアルゴリズムが存在することが知られている。

近年では DNA やタンパク質の異性体の構造などの研究にも関連して注目されている。

結び目は3次元多様体の形状を調べることにも利用できる。同様のことを次元を上げて一般化して考えようとすると、4次元空間では一次元の閉多様体である結び目はほどけてしまって役に立たないが、二次元の多様体である閉曲面を使ってやれば目的を果たすことがでる。これを4次元結び目理論、曲面結び目理論などと呼んで結び目理論に含めることもある。

2009年06月09日

疫学(えきがく、Epidemiology)の定義

疫学(えきがく、Epidemiology)の定義は諸説あり、国際的な合意は得られていない。
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Wikipedia英語版 (22:05, 3 January 2009)は冒頭定義で次のように述べている。「疫学とは集団における健康と疾患に影響を与える要因に関する学問であり、公衆衛生と予防医学への基礎と論理を提供する。公衆衛生研究の基礎的方法論とされ、疾患への危険要因および最適な治療方針決定への実証的な医療(EBM)として高く評価されている。伝染性および非伝染性の病気を含んだ疫学者の研究範囲は突発的流行疾患の調査研究から、研究計画、データ収集と解析、統計的モデルの考案による仮説検定、およびそれらの結果に基づく論文作成と、査読付き学術雑誌への投稿に及ぶ。疫学者は多くの学問分野を利用する。たとえば、疾患プロセスを理解するために生物学を利用し、危険因子の近因と遠因を探るために社会学と哲学を利用するのである。」
国際疫学学会の定義は「特定の集団における健康に関連する状況あるいは事象の、分布あるいは規定因子に関する研究。また、健康問題を制御するために疫学を応用すること。」である(日本疫学会翻訳、『疫学辞典第3版 国際疫学学会後援図書』財団法人日本公衆衛生協会、2000年、ISBN ISBN-8192-0167-X)。
他の定義の例として、「疫学とは生物集団における病気の流行状態を研究する学問」がある。すなわち、ある一時点/一期間での、ある一集団において、ある特定の病気が流行した場合、その流行の原因を調べ、その原因を除去することにより流行そのものを制御(終熄、予防)するための学問である。別名「流行病学」。
疫学的研究では、分析的手法として概念的な単位を微視的なものではなく生物一個体に置く。すなわち、集団における病気を持つ個体の数を測定することにより、流行状態を頻度(有病割合や発生率など)として数量化する。
集団生活を営む代表的な生物は人間であるため、疫学は人間集団に流行する病気の制御に用いられることが多いが、人為的に集団生活を営む動物(例えば家畜、産業動物)に流行する病気にも適用される(ただし、集団として捉えることが困難な野生動物に疫学は適用し難い)。したがって、疫学的手法は医学、獣医学の分野において多用される。
歴史的に見ると、はじめに疫学は急性疾患(とくに感染症)の流行の制御に対して大きな成果をあげた。この成果に伴い社会の疾病構造が急性疾患から慢性疾患(とくに生活習慣病)に変化したため、現在では長期間にわたる流行形態をとる慢性疾患の制御の研究にも疫学は用いられている。また、社会の高齢化に伴い、病気の流行現象ではなく、逆に健康の流行現象を対象とする疫学的研究も多くなった。この意味において「疫学(疫=疫病、はやりやまい)」と言う用語は不適切なものとなってきている。
最も素朴な説としては、「疫学は人間集団における病気の発生に関する学問」だとする説等がある参考文献1。
また人間以外にも拡張した説としては、「疫学とは病気の発生に関する学問」だとする説等がある。参考文献2、獣医疫学、参考文献6、参考文献7
また医学以外にも拡張した説としては、「疫学とは日本語では疫の字に病垂(疒)が付くので医学の一分野ではないかと誤解されていることが多いが、英語ではEpidemiology(epi; upon広範な -demos; people人間の -logos; study学問)と書き、人間集団に対するあらゆる因果関係の確認に用いられる学問」だとする説等がある

疫学の始まりはジョン・スノーのコレラ研究にあると言われる。コレラのイギリス侵入(1831年10月)当時、コレラは空気感染すると考えられており恐れられていた。しかしスノーは同じ流行地域でも患者が出る家は飛び飛びである等の知見を得て空気感染説に疑問を持ち、「汚染された水を飲むとコレラになる」という「経口感染仮説」を立て、疫学的調査と防疫活動を行った。

ブロード・ストリート事件 [編集]
1848年、コレラ患者が多量発生した地区にて患者発生状況の調査を行い、ある井戸が汚染源と推測、あてはまらない事例について調査を行い、「汚染された井戸水を飲んでいる人は罹る」と結論した。行政がこれに従い問題の井戸を閉鎖したため、流行の蔓延を防ぐ事が出来た。


水道会社給水範囲とコレラ患者発生との関係の調査 [編集]
ロンドンの水道会社はテムズ川から取水していたが、当時のテムズ川は汚濁がひどく衛生的とは言えなかった。スノーは患者発生マップと各水道会社の給水地域との比較照合を行い、特定の水道会社の給水地域においてコレラ患者が多発していることを突き止めた。同社の取水口は糞尿投棄の影響を受ける位置にあったという。

これは1883年にロベルト・コッホがコレラ菌を発見する30年も前の事である。

スノーの疫学的研究は、感染源・感染経路の解明という疫学的手法により、病原体が不明であっても感染症流行を止めることができることを知らしめた屈指の業績である。現代の社会で行われている疫学研究も本質的にはスノーの研究と全く変わりはない。

2009年04月25日

マクシミアヌス

マルクス・アウレリウス・ウァレリウス・マクシミアヌス(Marcus Aurelius Valerius Maximianus, 250年 - 310年7月)は286年3月1日から305年5月1日まで在位したローマ皇帝(ディオクレティアヌスとの共同皇帝)である。一度退位した後も306年、310年と2度正帝に複位した皇帝でもある。

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マクシミアヌスはシルミウム(パンノニアの一都市)に生まれ、軍に入隊して経験を積んだ。アウレリアヌス帝とプロブス帝に仕えた。おそらく283年のカルス帝によるメソポタミア戦役にも参加し、同僚のディオクレティアヌスが284年にニコメディアで皇帝に即位するときに立ち会ったと思われる。

285年、ディオクレティアヌスは、一人で支配し統制するには帝国はあまりに広いと考え、マクシミアヌスを副帝にして帝国の西側の統治者とした。翌年、マクシミアヌスはディオクレティアヌスに並ぶ正帝となった。293年にディオクレティアヌスがテトラルキア(四分統治制度)を導入すると、コンスタンティウス・クロルスがマクシミアヌスの副帝となり、マクシミアヌスの義理の娘フラヴィア・マクシミアーナ・テオドラを妻とした。

統治期間中、マクシミアヌスはドイツ北部のアレマンニ族 やブルゴーニュ人との戦い、ドナウ川国境のカルピ人との戦い、ブリタンニアで反乱を起こし皇帝を名乗っているカラウシウスとの戦いなど、軍事面でいくつもの勝利を上げた。また、彼はアフリカ方面の国境の守備力も強化した。

ゲルマン人に対処している間、マクシミアヌスは、海賊を討伐するためカラウシウスに北部艦隊を任していた。カラウシウスは何か金銭的に不正を行っており、処罰されることを恐れていたことが知られている。カラウシウスはブリタンニアとガリア北部をうまく支配下におき、自ら皇帝を名乗った。マクシミアヌスは、依然としてゲルマン人の脅威に足を止められており、新たに副帝に任命したコンスタンティウスを送ってカラウシウスの対策を任せた。コンスタンティウスはまずガリアに戻ってカラウシウスを討ち、続いて296年、ブリタンニアにおいてカラウシウスの後継者アレクタスを破って反乱に終止符をうった。

297年から299年にかけて、マクシミアヌスはヒスパニアのムーア人を攻略し、アフリカ北部の現地部族に対して侵攻した。この戦役の後、マクシミアヌスはゲルマン民族の対処も副帝コンスタンティウスに任せて、ミラノやアクイレイアに隠居した。

政治面では、マクシミアヌスはコンスタンティスに比べて元老院に積極的に関わった。一方、彼は同僚である東帝ディオクレティアヌスやガレリウスが推し進める反キリスト教徒迫害活動には協調しなかった。

2009年04月08日

ダブ

ダブ(dub)は1970年代に、スカとレゲエから発展したジャマイカの音楽の手法、およびジャンル。ダブワイズ(dubwise)とも呼ぶ。リミックスという音楽手法の元祖。

1970年代初め、キング・タビーが、サウンド・システム用のボーカル抜きのトラック(ヴァージョンと呼ばれる)を製作する過程で、偶然発明したという、曲のリズムをより強調する様にミキシングし、エコーやリバーブなどの過剰なエフェクトをかけて加工したもの。

また、ジャマイカではシングルレコードのB面にダブを収録する場合が多いが、その場合、基本的にボーカル抜きのカラオケのことを指す(「ヴァージョン」とも呼ばれる)。ヴァージョンは、必ずしもボーカルをすべて抜くわけではなく、ところどころにオリジナルの楽曲の歌を故意に残したりする。それはダブのひとつの効果となっている。

ダブは、もともとオリジナルが存在する楽曲を加工したものだが、出来上がった物はそのダブ・エンジニア名義で発売されることが多い。ダブ・エンジニアは、ジャマイカではリー・ペリー、サイエンティスト、ステイーブン・スタンレー、イギリスではマッド・プロフェッサー、エイドリアン・シャーウッド、日本では、Dub Master Xまたはizumi D.M.X miyazakiこと宮崎泉等が有名。

ダブバンド [編集]
本来はスタジオでの作業であったダブをライブで生演奏するようになったのは1980年代前半のイギリスと日本においてである。イギリスではアスワドやマトゥンビが、日本ではミュート・ビート等がほぼ同時期にダブバンドとして活躍した。現在でもこの分野の中心となっているのは日本のDRY&HEAVY(ドライ・アンド・ヘヴィ)等ジャマイカ以外のアーティストである。

日本のジャズミュージシャン菊地成孔は自身のジャズバンドにダブ処理のメンバーを加えたNaruyoshi Kikuchi Quintet Live Dub(現在はメンバー改変しNaruyoshi Kikuchi Dub Sextet)を結成している。

ダブ・プレート [編集]
ダブ・プレート (Dubplate)とはサウンド・システムのために作られた、一般にリリースされない録音、入手できないバージョン、あるいは既存の録音のリミックス等を収録したアセテート盤レコードのこと。詳しくは→ダブ・プレート

ちぇりもや 変わら ラビリティ サーミ サフィニア マンダ ロイワ モナムール セーター チたねもみ セイロ スパチュラ カーバ スキー トンカツ オーバ スパート ディーエー 激しい 地球 しらあや タンニン デラッ チャペル ブレスト オリーブ ウィン べにいろ バラード マレイド せっつ フローシー ファイター レランス ユート 甚兵衛 スウィング バイオ アーコ のつ国内 レトリ パッション セレブ オペック ケルビン メンヒル にらめっこ サンゴ とまこまい イアク

2009年03月24日

福井鉄道120形電車

福井鉄道120形電車(ふくいてつどう120がたでんしゃ)は、かつて福井鉄道に在籍していた電車である。

車両 [編集]
120形の車両は2両1編成となっているが、元の車両が異なる。導入当初はそれぞれ単行で運用していたが、後に片運転台化され、2両1編成に改められる。

モハ120-1(旧120形) [編集]
モハ121-1・122-1は、1950年に日本車輌で製造された、福井鉄道の自社発注車である。後述の120-2と異なり、貫通扉がない、車両の運転席が路面電車のように真ん中に設置されている、といった特徴がある。

元々は単行車両(モハ121・122)として、主に福武線で運行されていた。また、かつては鯖浦線や南越線での運行も行っていた。

モハ120-2(旧150形) [編集]
モハ121-2・122-2は元々、1929年に三河鉄道300形(デ302、301)として運行されていた全長17m級の半鋼製HL車両で、のち名古屋鉄道3000形(モ3001、3002)となった。1966年に廃車となり、車体のみ福井鉄道に譲渡された。福井鉄道ではこの車体に国鉄車両のTR11台車を組み合わせ、南越線150形(モハ151、クハ151)として運行していた。

1971年の南越線廃止後は、福武線に転属し、120形との連結改造(車体短縮化、福井市内電停用ステップの取り付けなど)が行われた。なお1972年の運行当初はクハ121、122となっていたが、1978年にモータが取り付けられ、モハ121-2、122-2となった。

車体 [編集]
外装は鋼製となっているが、車内は床、窓格子、座席手すりなどほとんどが木製となっている。座席はロングシートである。また、冷房化はされておらず、天井に扇風機が備え付けられている。

経歴(2両編成化以降)
1972年の2両編成化以降については、4両2編成が在籍していた。1992年に121号が廃車、2006年まで122号のみ在籍していた。

なお、120形は動力が吊り掛け駆動であったが、122号については、1997年にも200形の台車を流用してカルダン駆動に改められており、その際に車番がモハ122-1はモハ122、モハ122-2はクハ122(電装解除)となった。

福井鉄道に長年在籍していた車両の一つであるが、近年では平日朝の臨時急行以外にほとんど運行されず、予備車扱いであった。2006年4月に行われた路面電車の導入以降しばらく休車状態となり、同年6月24日と25日には80形と共にさよなら運転が行われた。

さよなら運転の後、122号は廃車となり、解体される予定であったが、かつて南越線を走っていた、現存する唯一の車両ということもあって、モハ122の1両のみが保存されることとなった。モハ122は2006年8月11日より、越前市今立地区の個人の敷地にて保存されている。

なお、モハ122と同型のモハ121-1が廃車後も西武生の車両工場の側線に留置されていたが、路面電車導入に伴う大型車両の解体作業と並行して解体された。

主要諸元(1両当たり) [編集]
車体構造:半鋼製
自重
モハ:31.5t(121-1)、30.5t(121-2)、26.5t(122)
クハ:24.2t
定員
モハ121-1・122:100人(座席定員:43人)
モハ121-2、クハ122:120人(座席定員:56人)

ルリマ カントリー おいずり ファラオ オーチャ バイバル ロカアォ パーカー トリミン ティラピ オール リージョ ダリア ドゥー ラーゲ ジフ スピコン プロテーゼ ツィリング アフロ 月下美人 シュート ソムリ レイド エアポ ピンポ レーキ パナビ いまかね ドレッ あかんち モルツ カイア スキッ チャートポ ベガス 紅葉 華ごころ リスト サーボ サイト紙燭 テレメ パステ コース オーナブリ ダット サーチアウト すなのみ ブールマ リーダー


2009年03月08日

カロリング家の断絶後

カロリング家の断絶後、987年にパリ伯であったロベール家のユーグ・カペーがカペー朝を創始した。ノルマン人の討伐で活躍したユーグ・カペーだったが、その王権は東フランク王国(ドイツ王国)などと比べても脆弱で、パリ周辺のみにしかその王権は及ばなかった。13世紀ころより徐々に王権の強化が進み、イングランド王リチャード1世やジョン王と争ったフィリップ2世は、プランタジネット朝(イングランド王家)の領土であったノルマンディーやアンジューを奪った。また、この頃フランス南部で広まっていたアルビジョワ派が異端とされ、アルビジョワ十字軍が組織された。この異端撲滅闘争は仏王ルイ9世の時代までに完了し、結果としてフランス南部にまでフランス王権が伸張することになった。このように、総じて13世紀におけるフランス王権の強化は、ローマ教皇との連携を前提として進められたものであった。しかし、第6回十字軍・第7回十字軍を行ったことはフランス財政に重い負担を与えることになった。

14世紀に入ると、フランス王と教皇の関係は対立へと転じる。財政難の打開を図った仏王フィリップ4世は、国内の聖職者への課税を図ってローマ教皇との対立を深めた。1302年、状況打開を求めたフィリップは、三部会(フランス初の身分制議会)を開催して、フランス国内の諸身分から支持を得た。その上で、翌1303年にアナーニ事件を引き起こしてローマ教皇ボニファティウス8世を一時幽閉するなど追い込んで憤死に至らしめた。その後、フランス人教皇のクレメンス5世を擁立させた上で、1309年に教皇庁をローマからアヴィニョンに移転(アヴィニョン捕囚、「教皇のバビロン捕囚」)させ、フランス王権の教皇に対する優位性を知らしめた。このことによって、のちの宗教改革の時代よりも早く、フランス教会はカトリックの枠内にありながらローマ教皇からの事実上の独立を成し遂げた(ガリカニスム)。このカペー朝の繁栄は続くかと思われたが、フィリップ4世の死後に3人の息子があいついで急逝し断絶へと至った。

なお、フランスの王位継承者は、サリカ法典により男系のカペー家の子孫のみが継承権を許されている。以降、フランス王家はヴァロワ家、ブルボン家へと受け継がれるが、これらの家系もカペー朝の傍系である。その意味においては、王政(フランス王国)がフランス革命によって打倒されるまで、カペー家の血筋が続いている。(1814年以降のブルボン家、オルレアン家を含めると、その血統はさらに続くことになる。)
せいぜつ デスマ バグパイ セミナー ユビキノン バラック フロック ダバッグ パンパ ソドミー リング ウォーム ジョーズ ドーミ クロスバ サイバー バンガ ハミング メンソール しろかもめ ポトス ロリズム ニング ヨヒン ハイク ナビ雑草 レモネード ダウラギ イロード テーション テンショ フルベ ビーフシ マーメ ステイ レリック げんこつ スレーブ フラグ トップモー ランドレ チュクチ モノマー ニーズ トラポコ テンポ エニグ ギャラリー ラスト マーキュリ

カペー本家の断絶を受けて、1328年にヴァロワ家のフィリップ6世がフランス王に即位した。しかし、フィリップ4世の孫にあたるイングランド王エドワード3世は、自らこそフランスの王位継承者であると主張し、両国の間で百年戦争が勃発した。当初は、長弓部隊などを導入したイングランドが優勢であり、クレシーの戦いやポワティエの戦いで勝利を収めていた。勢いに乗るイングランドの軍勢はパリを占領し、フランス王シャルル7世をオルレアンに追いつめた。しかし、ジャンヌ・ダルクの登場を契機として戦況は逆転へとむかい、最終的にはドーヴァー海峡に近いカレーを除く大陸領土をフランスが制圧して終わった。長期にわたる戦乱は封建諸侯の没落を招いたほか、戦争予算を工面する必要から官僚制の整備が図られ、王権の強化がさらに進んだ。

2009年02月20日

宇宙戦艦ヤマトIII

『宇宙戦艦ヤマトIII』(うちゅうせんかん-)[1]は讀賣テレビ放送系で放送されたテレビアニメーション。
ハンモ サイクロ ジャイル ダゴン ローツェ 夕立ち クフルト マーガ 白菜 エゴイ シプリン ヒート サテラ 黄昏 あくび ぞくげん スコール おきなれ プリスクール トーラス ブルー オートオオ レモンピー 天永 リュード フキ ギアシ ルクセン ジャイロ サイド ジェット ダックス フレア 四天王 マンゴー ピアニスト モヒカン ナビむつ デザイン キュー きつき ストップ じょうさい ヒヤシンス シュミナ リフネ メゾネット イング ダッシュ リング

宇宙戦艦ヤマトシリーズの最後のテレビアニメで、1980年10月11日 から 1981年4月4日までの土曜日の午後7時から7時30分、全25話で放映された。 当初は、全52話で放映予定であったが、視聴率が15%程度と低迷したため、放送期間が短縮される。

本編の放送開始前に、2時間スペシャルの事前番組が制作される[2]。

1983年12月28日 読売テレビ系水曜ロードショー枠で総集編『宇宙戦艦ヤマトIII 総集編・太陽系の危機!』が放送される。

本作の続編として『宇宙戦艦ヤマト 完結編』が制作される
23世紀初頭、星間国家ボラー連邦と新興帝国ガルマン・ガミラス帝国との間で、銀河の覇権を争う銀河系大戦が勃発。ボラー連邦の属領バース星をめぐる戦闘で、ガルマン・ガミラス帝国軍の使用した惑星破壊プロトンミサイルが流れ弾となり太陽に命中。

地球連邦大学のサイモン教授は、太陽で起きている核融合の異常増進に気づく。このまま進行すれば、1年以内に地球は灼熱地獄となり人類は滅亡し、3年後には、超新星爆発を起こして太陽系自体が消滅する。観測データと導きだされた結論を地球の危機として警告を発するが、地球連邦政府は事態の深刻さを理解するどころか、サイモン教授を大学から解雇する。

ただ、地球防衛軍司令長官藤堂平九郎は、サイモン教授の警告を重く受けて止めていた。最悪の事態に備え、ヤマトを第2の地球探しの特務艦として、銀河系中心方向に派遣することを決定。長く艦長代理を務めてきた古代進を正式に新艦長として任命。補佐役として島大介及び真田志郎を副長に任命。また、土門竜介、揚羽武ら新人乗組員を乗船させ出航準備を進めさせる。暁の日本アルプスの雪原から、人類が移住可能な惑星探索に旅立つヤマト。

だが、間もなく2大星間国家の星間戦争に巻き込まれる。

ダゴン艦隊の攻撃で傷つき、太陽系へ逃れてきたバース星旗艦ラジェンドラ号を助けた事から、ヤマトとガルマン・ガミラス東部方面軍は交戦状態に入ってしまった。ヤマトは数回の戦闘を勝ち抜いたが、ついに捕獲されてしまう。

ガルマン・ガミラスの総統はデスラーだった。再び地球やヤマトと戦う可能性を避けるため、オリオン腕最辺境の恒星系には手を出すな、と厳命していたデスラーは、部下たちが独断でヤマトと戦っていたことを知って激怒し、古代をはじめヤマトクルー一同に対し、総統としてその不明をわびる。

自軍のミサイルが原因で地球に危機がせまっている、と聞いたデスラーは、償いに太陽制御のための工作船団を派遣するが失敗に終わる。

国境付近のM1678散開星団のはずれにある地球に似た惑星ファンタムを紹介した。しかし、ファンタムはコスモ生命体であって、第2の地球にはなりえないことが判明した。惑星ファンタムで、ガルマン・ガミラスとボラーの双方から追われるルダ王女を助けたヤマトは、ボラー本国艦隊を破ってルダ王女をシャルバート星に送り届ける。環境が地球と酷似し住民が全くの無抵抗であるこの星を見て、乗員の中には土門の様に、シャルバート星を占領しようと提案する者もいた。古代でさえ一瞬はそう考えたが、それではボラー連邦やガルマン・ガミラスと同じになってしまう、と説得しその提案を退けた。

シャルバート星は古来から全宇宙でも脅威に値する科学力を持ち、それを自分たちの意思で敢えて封印していたのであった。ヤマトは、ルダ王女から核融合を制御するハイドロコスモジェン砲を贈られ、異次元空間を最高速で航行し、太陽系へ帰還した。

ボラー連邦ベムラーゼ首相は、自ら大艦隊と切り札とも言うべき機動要塞ゼスパーゼを駆って太陽系内に侵攻し、デスラーを誘き寄せる事を目的にヤマトを攻撃する。デスラーが親衛艦隊を率いて太陽系内に現れ、ボラー艦隊をデスラー砲の斉射で一掃するものの、秘密兵器ブラックホール砲により、旗艦以外の親衛艦隊を失うピンチに陥いる。しかし、揚羽の特攻によってブラックホール砲の砲口を破壊されたゼスパーゼに、デスラーは、ハイパーデスラー砲でとどめを刺す。土門の決死の復旧作業により稼働したハイドロコスモジェン砲は太陽の核融合異常増進を鎮め、地球は、人類滅亡まであと30日を残して救われた。

演出
「太陽に核融合異常増進が起こり、このままだと1年以内に地球は灼熱地獄となって人類が滅亡」のあらすじは、高校生のファングループの投稿が元になっている[4]。また、この設定は第1作で用いられた、「イスカンダルへの1年というタイムリミットを切られてのカウントダウン」の緊迫感を再度活用したものであり、シリーズ内オマージュでもある。

地球に直接侵略を企てる異星人が登場しない。銀河系はガルマン・ガミラスとボラー連邦の二つの超大国の全面戦争の真っ最中であり、地球はその巻き添えを食らったに過ぎない点で異色である。

ボラー連邦とガルマン・ガミラス、そして地球の関係は当時の冷戦構造が基になっていると思われる(ボラーをソ連、ガルマン・ガミラスをアメリカ、地球を日本と置き換える事もできるが、本来、ガルマン・ガミラス、ボラーに次ぐ第三勢力として登場が予定された「ゼニー合衆国」が、米国をモデルとした存在である。ただし、ゼニー合衆国の登場は放送期間の短縮のため、結局見送られている。)。ICBMを思わせる戦略兵器・惑星破壊プロトンミサイルも登場した。 なお、ガミラスは元々ナチス・ドイツをモデルとしている関係から独ソ戦のイメージも一部織り込まれている(機甲艦隊等といった名称が登場するが、無論これは独ソ戦で主戦力であった戦車機甲師団をイメージしたものである)。

ヤマトの航路
ヤマトはおおよそ、以下のような航路をたどった。

地球(日本アルプスのドック) - 海王星 - 11番惑星 - アルファ・ケンタウリ第4惑星 - バーナード第1惑星 - 白鳥座三連星 - バース星 - ガルマン・ガミラス本星 - 惑星ファンタム - スカラゲック海峡星団 - シャルバート星 - 地球

2009年02月04日

巻首にある系図からは天文年間(1532年 - 1555年)

巻首にある系図からは天文年間(1532年 - 1555年)の写本と推定されているが、冒頭の目録に無い3年分(北条本にもない)が含まれていることなどから、天文年間以降も収集と補訂が続けられていたと見られる。1650年(慶安3)に幕府に献上され、現在島津家文書に残るものはそのときの副本とされる。幕府に献上された島津本は行方不明であるが、その中から徳川家所蔵のいわゆる北条本に欠けていた3年分が1668年(寛文8)に『吾妻鏡脱漏』として、更に北条本の計11巻との差分『吾妻鏡脱纂』が1679年(延宝7)に木版で出版された。
チルー オストメ ミモレ サイド ジャック プレクリ スコポフ きゅうてい スパイス ウフジ ラップ トーシュズ サイレン ノーカ キンセン チャイルド スター ホンコン デックス きゅう メトセク ルーキー バリヤー シュルレ フォトス フィブリン トリプタン ソユーズ ワゴン シェア すあわ ステージ ボケSEO ムルロ グルベド どふぇ ユニオ スマッ ブレテ アイス テーブル ファシズム 男船日本 未来地図 端玉アク シブシップ 長崎赤 ケイトウ モンゴ サイフォン

吉川本
現在『吾妻鏡』の最善本と目されるのが吉川(きっかわ)本であり、大内氏の重臣陶氏の一族、右田弘詮(陶弘詮)によって収集されたものである。右田弘詮は、1501年(文亀1)頃、その写本42帖を手に入れることができ、数人の筆生を雇い、書き写させて秘蔵した。しかしそれには20数年分の欠落があった。弘詮はその後ようやくにして欠落の内5帖分を手に入れる。これを最初の書写と同じ形式で書き写させ、その目次も兼ねた年譜1帖も加えて1522年(大永2)に全48帖とした。それがその後大内氏の滅亡とともに、毛利元就の子、吉川元春の手に移り、以降吉川家に伝えられた。現在も吉川資料館蔵で重要文化財である。

北条本にはある寛元4年、建長3年、建長7年は欠損しているが、逆に北条本に無い『吾妻鏡脱漏』部分の3年を全て含み、それ以外にも日の単位で数百箇所が吉川本のみにある。日単位のものでは北条本との差分は祈祷祭礼に関する記事が多く、また前半部分においては殆ど一致し、差異は後半部分に集中する。

それらのことから和田英松は「吾妻鏡古写本考」において、北条本などの源流である金沢文庫本は節略本であり、吉川本はそれより前の編集途中の版をベースとした写本であろうとした[56]。今日云われる「北条本」は前述の通り「いわゆる北条本」に過ぎないことから、この認識は現在では根拠を失っているものの、和田英松や八代国治が、編纂途中で斧削を加える前の段階を思わせる吉川本の史料価値は北条本に勝るとした点は現在でも肯定されている。

黒川本
『群書類従』を編纂した塙保己一(はなわ ほきのいち)の和学講談所温古堂の蔵印がある。目録の終わりに「応永11年甲申(1404)8月25日金沢文庫御本書之」とあり、応永11年に金沢文庫本から書写したものを更に書写したものと推定される。大正時代に黒川真道が所蔵していたことから黒川本と呼ばれるがその後焼失し、東大史料編纂所にその目録部分の影写のみが残されている。

抄出・零本系
集成本と分類される写本の主要なものは上記の北条本、吉川本、島津本の3点であるが、その他抄出・零本の類では前田育徳会尊経閣文庫蔵の1406年(応永13)の奥書を持つ『山密往来』の紙背に、1184年(寿永3)4月6日条から同年12月16日まで9ヶ月弱の抄出が見つかっており、写本中最古のものとされる(重要文化財)。また、前田家には包紙上書に「文治以来記録」と書かれた1187年(文治3)から1226年(嘉禄2)までの間の、流鏑馬など武芸に係わる記事43日分を抄出したものも残されている。その他伏見宮家旧蔵の伏見宮本は17日分の記事の抄本である。三条西公条筆とされる三条西本は50日前後の記事を2種類有している(その間には重複もある)。清元定本と呼ばれるものは室町幕府の奉行人清原元定が写したもので4冊計106丁である。集成本は、こうした抄出・零本系を右田弘詮、あるいは徳川家康が苦心して集めたものと見られている。

歴史資料としての価値
最後に明治以降の研究者が、この『吾妻鏡』の歴史資料としてどのように評価してきたかをまとめておく。

星野恒
星野恒が1889年の「史学雑誌」創刊号に載せた『吾妻鏡考』が近代史学における吾妻鏡研究の出発点となった。そこにおいて、星野は『平家物語』などの「物語」と異なり、「鎌倉幕府の日記」であって信用のおけること、そして幕府記録の嚆矢(こうし)であり、武家制度、法令、政治経済を理解する上で必須の史料と位置づけた。
原勝郎
それに対して原勝郎は「其記事の比較的正確にして且社會諸般の事項に亘り、豐富なる材料を供給すること多く他に類をみざるところなり」としながらも、すくなくとも前半は「日記」とは思えないこと、そしてそれを全面的に信用することに対しては疑問を投げかける。吾妻鏡の史料としての価値は「主として守護地頭其他の法制に關係ある事實」にあるとする。それらの多くは政所や問注所に関係ある諸家の筆録、その他の記録であろうし、それらに政治的曲筆が入り込む可能性は少ないだろう、しかし北条氏を正当化する為の曲筆が多く、政治史の材料としては信憑すべき直接史料とはみなし難いとした。
和田英松
和田英松は前半どころかその全てが後の編纂物であって「日記」(リアルタイムな記録)ではないとする。しかしこれは鎌倉時代の中葉に、幕府が公私の日記文書によって編纂したものであって「史料としての価値は日記に劣ることあらざるべし」とする。またその編纂意図については「幕府の記録を統一して、先例調査の機関に備えんが為」であったのではないかとした。
八代国治
八代国治は『吾妻鏡の研究』において、和田と同様に全てが後の編纂物とし、更に「切り張りの誤」「生存者を死者となす」「死者を生存者となす」「偽文書の採録」など「記事の誤」を徹底的に指摘し、原と同じように政権闘争史に関する史料としては、一等史料として信用し難いとする。その一方で、幕府政所、問注所、及びこれに関係する者たちの日記、記録、文書、及び京都公家の日記などの資料によって編纂した部分が大部分を占め、その編纂も幼稚で余り「斧削」を加えていない、従って曲筆、偽文書、意図的な顕彰を注意深く取り除けば、鎌倉時代の根本資料として恐らくはこれに匹敵するものはあるまいとする。
佐藤進一
和田英松、八代国治の研究は大正初期のものだが、戦後1955年の佐藤進一・池内義資編の『中世法制史料集』の態度は「対応資料の見出せない場合には一切吾妻鏡を採録せず、後日の研究を俟つことにした」という非常に慎重なものであった。それは八代いうところの「上述の誤謬を糾し、粗漏を除き」という作業が如何に難しいかを物語っている。実際に『吾妻鏡』の記述を根拠とした「守護・地頭の成立1185年説」がひっくり返ったのは、先に紹介した通りこの『中世法制史料集』編纂より後に起こったものである。
益田宗
益田宗は、北条本は「いわゆる北条本」に過ぎないこと、現存する吾妻鏡の写本は寄せ集め本にすぎず、写本の本文系討論は成立しえないことなどを指摘した。また八代国治の編纂2段階説を否定して、その成立はほぼ14世紀初頭とし、当時に幕府の事務官僚に集められた様々な種類の原史料がベースとなっていると見るべきであること、同じ理由で京都や西国で起こったことなどは欠けていることが多いこと。そしてその編纂時期以前に既に北条得宗専制期であるため「北条氏をはばかる記述[57]」もあることに注意が必要であるが、しかしその曲筆は必ずしも編纂者の手によるという訳ではなく、編纂者自身がそう聞かされていた、集めた史料にはそう書かれていたと見る方が正しかろうとする。しかしそうした「本書の短所は、短所なりに価値をもつものであって、必ずしも本書の価値を低めるものでは」なく[58]、鎌倉幕府の研究、更には武家社会の解明には不可欠の文献であるとする。
五味文彦
近年『吾妻鏡』の研究で大きな仕事をしたのは五味文彦であるが、五味は『中世法制史料集』の態度を紹介しながら、それでも『吾妻鏡』は、実に豊かな法令を含んでいるという[59]。五味は、原史料の見通しをつけることができれば、編纂のあり方、誤謬のあり方も自然にわかってくるだろう、そうすれば八代がその著書の最後に述べたように、鎌倉時代の根本資料として有益な情報を抽出出来るはずだとする。

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^ 近藤守重は「老談一言集」と書いているが江戸中期の旗本で国学者の朝倉景衡(日下部景衡とも)が「老談一言記」を著している。
^ 例えば1909年「源頼朝挙兵の名義に就きて」などにも覗える
^ 『史学叢説』収録の「修史論史の要は材料精懌に在る説」でははっきりとそう述べている。
^ 尚、関幸彦は『吾妻鏡必携』冒頭の「『吾妻鏡』とは何か」の中で「和田英松・八代国治などの代表的見解では」、増田宗も『国史大辞典』「吾妻鏡」の項で「和田英松・八代国治の研究によれば」として編纂2段階説を紹介しているが、より厳密には編纂2段階説は八代国治からであり、和田は少なくともこの1912年の「吾妻鏡古写本考」、更に1936年の「吾妻鏡の伝本に就いて」においても2段階説はとっていない。
^ 八代国治『吾妻鏡の研究』 p68(以下頁数は1941年復刊の明世堂書店版による。)
^ 八代国治 『吾妻鏡の研究』 p71
^ 笠松宏至 「徳政・偽文書・吾妻鏡」
^ 『鎌倉幕府裁許状集』下 p51
^ 益田宗「吾妻鏡の伝来について」『論集中世の窓』 p326
^ 八代国治が『吾妻鏡の研究』で指摘したのは14箇所であったがその後の研究で3箇所が追加された。
^ 上横手雅敬『源平争乱と平家物語』p234、及び後述の上杉和彦『源平の争乱』
^ 上杉和彦『源平の争乱』 p124
^ 上杉和彦『源平の争乱』 p1、川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ』p8。及び上横手雅敬『源平争乱と平家物語』、保立道久『義経の登場』など。
^ 『愚管抄』には後に頼朝が後白河法皇に語った内容が書かれており、そちらの記述からこの間の経緯が理解されている。
^ 元木泰雄『武士の成立』 p193-195
^ 千葉氏における先祖顕彰は妙見信仰や『源平闘諍録』など、他氏には類を見ないほど強いものがあるが、野口実は『中世武家系図の史料論』収録の「千葉氏系図の中の上総氏」等の中で、その背景を上総千葉氏が宝治合戦に連座して滅亡し、庶子家の分立、幼少な当主と言う中での精神的な一族統合の必要性故としている。
^ 『中世の法と国家』収録
^ 石井進『日本の歴史 7 鎌倉幕府』 p173
^ 辞世の句のようなもの。
^ 黒田俊雄は『日本の歴史8 蒙古襲来』 p48で「ほかにもそんな例は多いそうだから、盗作などと悪口をいうほどのことでもないらしい」とする。
^ 益田宗「吾妻鏡騒動記」
^ 益田宗『論説中世の窓』 p339
^ 八代国治の『吾妻鏡の研究』(1913年)で初めて紹介されたものであり、1895年の『吾妻鏡集解』には収録されていない。
^ 八代国治の『吾妻鏡の研究』(1913年)に全文が紹介されている。
^ 原勝郎『吾妻鏡の性質及其史料としての價値』
^ ただしこれを義時の回護の為の編纂者の意図的な曲筆と決めつけて良いものかについては疑問もある。武久堅は1976年の『文学』44-10「畠山物語との関連」において鎌倉時代に『畠山物語』という四巻の軍記物があったと言い、『吾妻鏡』に見る畠山重忠像は北条氏に滅ぼされたにしては際だった英雄像であることから、そこでの畠山顕彰がそのまま『吾妻鏡』に書き写された可能性を大石直正は『吾妻鏡辞典』(p21)で指摘している。
^ 元東大史料編纂所教授
^ 龍福義友 吾妻鏡の虚構一考補論──文治二年五月六日院宣の信憑性
^ 龍福義友「吾妻鏡の虚構一考─文治二年三・四・五月の公武交渉を素材として(上) 」(下)。
^ ただし鎌倉側にも関連資料が残っていたらしく、藤原保季を斬り殺した武士の名などは『明月記』にはない。
^ 殺された藤原保季は定家の親族である。
^ 平田俊春「吾妻鏡編纂の材料の再検討」
^ 平田俊春「承久役に関する吾妻鏡の記事の史料について」
^ 佐藤進一『史学雑誌』1952年61-9号
^ 八代国治『吾妻鏡の研究』 p68-69
^ 八代国治『吾妻鏡の研究』 p75
^ 五味文彦『増補 吾妻鏡の方法』p285。五味は同時に1186年(文治2)閏7月19日条もあげている。
^ 五味文彦『増補 吾妻鏡の方法』p299
^ その出産はツボを突いているように見えるが、他の要素との兼ね合いでの話であり、出産記事だけなら1188年(文治4)1月22日条には政子の女房比企藤内朝宗の妻越後局の記事がある。
^ 「永仁三年記」6月26日条
^ 『論集中世の窓』p317
^ 五味文彦『増補 吾妻鏡の方法』 p310-311
^ 「金沢文庫古文書 324号」
^ 太田時連「永仁三年記」6月26日条
^ 岩波講座『日本通史』巻8 通史 p51
^ 太田時連『永仁三年記』
^ 岩波講座『日本通史』巻8 通史 p31
^ 五味文彦対談「『吾妻鏡』の謎をさぐる」
^ 細川重男『鎌倉政権得宗専制論』p297
^ 頼朝の死に関する記事が無いことから江戸時代には「家康が隠したのでは」などとの憶測も生まれたが「江戸時代の研究」で触れた通りである。
^ 『論集中世の窓』p334
^ その説は、江戸時代後期の1808年(文化5)2月に徳川幕府の書物奉行となった近藤守重が著した『御本日記続録』からであるが、黒田長政が『吾妻鏡』を献上したというのはその時期「寛政重修諸家譜」にまとめられた黒田家提出の系図の黒田長政の箇所からであり、そこには「九年(慶長)三月父が遺物備前国長光の刀、木丸の茶入を献じ、台徳院殿(秀忠)に東鑑一部を奉る」とあるのみで、何巻だったのかなどは記されていない。
^ 井上聡・高橋秀樹らの研究(『明月記研究』5 2000年)によれば、15世紀末から16世紀初頭の頃(文亀年間頃)オリジナルの42冊が書写され、それに対し享禄・天文(1528年から1554年)の頃にそのオリジナル写本に島津・吉川本系の写本から校閲がなされ、更に次ぎの段階で島津本系の写本から補写がなされ、それを家康は慶長以前(1596年以前)に入手したと推定される。
^ 家康が印行の準備に取りかかりるのは1603年(慶長8)、翌1604年(慶長9)3月に黒田長政から「吾妻鏡一部」の献上を受ける。つまり後北条氏が所持していたとされるものが黒田を通じて家康の手に入る以前に8割以上の巻を既に持っていたことになる。6月に西笑承兌に全52巻内49巻は揃っているが3巻が手元に無く、諸家に声をかけて捜しているところだと手紙を出している。そして更に翌年1605年(慶長10)3月の慶長古活字本開版時点では52巻中51巻が揃っている。
^ 益田宗「吾妻鏡の伝来について」(『論集中世の窓』p345)
^ 八代国治「北条時頼の廻国説を論ず」
^ 「吾妻鏡」日本大百科全書(小学館)
^ 「吾妻鏡」『国史大辞典』p212
^ 五味文彦 『増補 吾妻鏡の方法』 p142 注記1

2009年01月21日

滑空時に揚力を得るため

滑空時に揚力を得るため、特殊素材のだぶだぶの全身スーツを着ている。これは、現在着用を義務化しているヘルメット同様、転倒着地の際の身体へのダメージを防ぐ、クッションの役割も果たしている。しかし、近年では、そのだぶだぶが浮力を生む原因となっているため、より身体に密着したスーツを用いることがルールで規定されており、その分素材は衝撃吸収に長けたものが使われている。

ジャンプ競技場をシャンツェと呼称することがあるが、これはドイツ語(schanze)である。発祥の地であるノルウェー語では、バッケン(bakken)と呼び、ジャンプ台記録をバッケンレコードと呼称するのはこれに由来する。

ジャンプ競技場は、大きく分けて、

助走路(アプローチ、インランとも)
踏切台(カンテ)
着地斜面(ランディングバーン)
減速区間(ブレーキングトラック、アウトランとも)
他に、審判台(ジャッジタワー)などの付帯施設からなる。

助走路のシュプールは、かつてはテストジャンパーが滑って付けていたが、近年は機械等で溝を成形してレール状にしている。

踏切台は、よく上向きであるとの誤解を受けるが、実際には下向きに10度前後の勾配が付けられている。上向きであると、踏み切ったときに後方へのモーメントが発生し、宙返りしてしまうためである。このような誤解は、下からカンテを見ると上向きに見えることや、フリースタイルスキーで使用するジャンプ台(キッカー)が実際に上向きで作られている事から混同されているものと思われる。

サマージャンプの場合、セラミック製のレールを使用した助走路とひも状のプラスチックを敷き詰めたランディングバーンで構成されたサマー台で競技が行われる。
キシラン ノート ローズ マッハ リボ デリバラ 田舎国 ゴマナ ゲート フォトモ ザンス カッコー コッチ チリン シャー タジーン メーカ ディング モード アップ クロゼ レイオ モラトリ ダイキリ サイリウム レセプト クオリア ロトロン シーラーズ プルマン タリフレ ハッチ カップ ブローシャー オレキシン タバーン ノード ビッシング ヒットラー タッチ きくま 深呼吸 ゾディア はつう パラコート マスコ 和銅 しちの トラック ビヨウ

2008年現在、日本には、ノーマルヒルとラージヒルの双方の正式競技場(シャンツェ)を有する場所は、冬季オリンピック会場だった、長野県白馬村(白馬ジャンプ競技場)と、北海道札幌市しかない(但し現在白馬ジャンプ競技場のノーマルヒルはFISの公認を外れている[1]。)。札幌市では、ノーマルヒルが「宮の森ジャンプ競技場」、ラージヒルは「大倉山ジャンプ競技場」である。

シャンツェごとに形状や条件が異なるため、また、同一の会場でも大会毎、一試合内でも各トライアル毎に、降雪や風向きといった天候条件が異なり、また、気温や選手の使用状況による、刻一刻の助走斜面の雪質の変化などがあるため、共通の記録は設定できない。そのため、それぞれの競技場での「バッケンレコード(最長不倒記録)」といった形で、最高記録が認定される。

2004年に開催された国際スキー連盟の総会にて、競技規則中のサイズの分類方法が変更された。従来はK点までの飛行換算距離で分類されていたが、変更によりL点までの飛行換算距離(ヒルサイズHS)で分類されることになった。

フライングヒル 185m以上
ラージヒル 110m以上
ノーマルヒル 85m?109m
ミディアムヒル 50m?84m
スモールヒル 20m?49m
競技規則により、ラージヒルでは、着地終点区間のU点とテークオフ先端(カンテ)の垂直距離 (zu) が88mを超えるものは公認されないため、実質上HS=145mが最大である。したがって、ヴィリンゲン(ドイツ)のHS=145mが、ラージヒルのサイズとしての規則上の最大値である。